中学三年で母が死に、死にゆく母から自分の心が逃げ出す様に、愛というものを疑った。
今回は、その続きを。高校時代の話を書こうと思います。
お父さんが「農業をする」と神戸の実家から出て北海道に行いってしまい、一人暮らし暮らしをすることになり。
私は、はじめて彼氏ができて。
お父さんは、お互い一目惚れの電撃結婚をして。
私は、はじめての失恋をして。
あれ、気付いたら、家族を維持したいと願っているのは、私だけになっているぞ。
その後、さびしさを埋めるには、恋愛がいいと味をしめていく。
そんな話です。
父がでていき一人暮らし。そして再婚
高校時代は、多くの人がそうなんでしょうが、いろいろありまして。書こうと思えば5話分くらいかけてしまいそうなので…。今回は、私自身の「結婚・家族観」に影響を与えたことがらにテーマを絞って書いていこうと思います。
そういうテーマでいうと、父の話に触れることになります。
私の父は魅力的な人です。そして、今では、というか今でも、私は父のことが大好きです。
ということを最初に書いておきましょう。というのも、私の高校時代に、私と父はあれこれありまして。それに触れると批判をしているようになりうるからです。(お父さんもこれを読む可能性があるので…)
「お父さん、北海道で農業をしようと思うんだ」
私は、兵庫県神戸市で生まれ、育ちました。そして、中学を卒業し、当たり前に神戸の高校に進学します。
高校一年の冬ごろです。
父が会社を辞めて、北海道に行き、農業をすることになりました。
私と、兄は、すぐに賛成しました。
「いいんじゃない」と。
兄は、東京の大学に進学することが決まっていて、その春には神戸の家を出るので、私は2年余りの間に母を失い、父と兄と離れ、一人暮らしをすることになります。
あのままだと心を壊していた?
まあ、みんな驚きますよね。
どうして、娘を一人置いていくのか。高校卒業するまで待てなかったのか。お母さんが死んで、一年やそこらでどうしてそんな環境を作るのか。
でも、娘としても、おそらく兄も、周りが思う以上に父の選択をスムーズに受け入れていました。
というのも、父が3年間の母の闘病を支え、失い、生きる意味を失っているのを見ていたからです。お酒を飲まないと眠れない、すぐに泣く、仕事が手につかない。あのままもしも、サラリーマンを続けていたら、心を壊していたのではないかと思います。
父にとっては、農業をすることは、幼い頃からの夢だったようです。通勤の電車に「現代農業」という農業雑誌を忍ばせ、もしも…を想像する。神戸のニュータウンの外れにたったひと畝の畑を借りてサツマイモを育てる。
人間、いつどうなるかわからない。今、自分がいる生活を続ける気力が消えていく…。そんな精神状態にあった父にとって、神戸の生活を捨て農業を始めることは、えいや!っとジャンプするようなことではなく、むしろ、そうするしかないという自然なことだったのでしょう。
(なんで北海道なのか、というのは、昔から北の国からが好きで憧れていたという、ミーハーな理由が大きいよう)
罪悪感からの応援
後ろを向いていた父が、前を向くために、自分自身の夢に向けて行動するというのは、全く批判する要素がないし、単純にいいことだと思いました。
加えて、もっと個人的な感情を言うと、単純に、何を見ても「これ、お母さん好きだったよね」と唇を真一文字に結んで、引きつった笑顔のような顔をして目に涙を浮かべる父が、見ていられなかったというのもあります。
母の死から逃げ出した私には、母の死をまっすぐに悲しむ父を見て、罪悪感からか「うざい」だなんて思っていたのです。
そんなこんなで一人暮らしが始まります。
ふつうに楽しい。ふつうに、さびしい。
高校2年から一人暮らしで、その理由が、母の死と父の移住だと言うと「それは大変だったでしょう」と言われることが多いのですが、まあ、ふつうに楽しくはありました。
友達が泊まりにきたり、自由にテレビを見たり、映画を見たり、好きなものを食べたりと。
仕送りもあって、それをどう使うかは自分次第。節約をしてお金が余ればそれが自分のものになる。以前よりも、自分の決断の範囲がぐぐっと広まったことで、「生きている感じ」のようなものを感じていた自分もいました。
さびしくはありましたが、どうせ、さびしかったので、同じくさびしいならば、自由で、刺激的な方がいい、そんな感覚もあったと思います。
だから、父が北海道に出ていく分には、まあ平気だったのです。
「お父さん、恋しちゃったんだ」
そんなこんなで、春が終わり、夏がきた頃。
父から電話があります。
「お父さん、恋しちゃったんだ」
という、内容です。
少し前から、知り合いの紹介で文通をしていた相手がいて、その人と偶然が重なり会えることになった。
そして、一目会ったその瞬間にお互いに一目惚れをしてしまった!!
もう、その翌月くらいに一緒に暮らすことが決まって、住み始める、かなんだかというスケジュール感だったと思います。
わお!ですよね。
私の反応は「いいんじゃない」という、肯定でした。
お父さんは、お父さんの人生を歩む。
多分、母の闘病と、死が強烈すぎたんです。
私自身、母から逃げ出したのに、お父さんだけ執着しろだなんて言えない、そんな無意識の感情もあったのでしょう。
父も人間だし、自分の人生を歩むべき。
しかも、父の奥さんはとても魅力的な女性で、何の文句もない。
賛成しているはずなのに、心がついていかない
その後、結婚パーティー。
父と奥さん、二人の生活スタート。
(私に初めて、安定した彼氏ができたのがその頃だった気がします)
その頃から、私は父にやたらと反発をするようになります。
完全に、父の人生の選択には賛同しているはず。
それなのに、やっぱり、心がついていっていなかったのでしょう。
父の人生から、私の存在感が減っていくことが、多分すごくさびしかったのです。
さびしいけれど、さびしいというのをうまく表現できず、攻撃していた。
家族で住んだ3LDKに一人ぼっち
誕生日の連絡がこない。
電話の回数が減る。
まあ、思い返すと、ささいなことで。
私自身、おとなになり、仕事をするようになり、家庭を持つと、父も新しい農業という仕事、新しいパートナーとの生活にそりゃあ夢中になるだろうなと思うのです。
私は、父が新しい人生を始めることを願っていたので、むしろそうなることを望んでいたはず。
でも、あれ?となった。
私の家は、仲良しだったはずなのに。
お母さんが死んで、お父さんが出て、お兄ちゃんが出て行き。今は、家族で住んでいた3LDKに一人だぞ。
一人なだけでなく、みんなが新しい人生を送っている。新しいことを見ている。
あれ、あんなに大好きだった家族なのに、家族に残っているのは、もう私だけになっている。
家族がなくなっていくことを悲しんでいるのは、私だけになっている?
(父も、兄も、別の形で母の死と、離散に苦しんでいました。これは当時の私の感覚の話)
罪悪感なく、まっすぐさびしい
私はこの頃、母が死んだときよりも、さびしさを感じていました。
というのも、母が死んだときは、さびしさを感じることなんて、できなかったんです。私の方が先に母から逃げ出してましたからね。さびしいだなんて思うことが、罪悪感で。そんなことをまっすぐ思えず、心が固まるしかなかった。
でも、父の中から、私の存在が減っていくことは、私には罪悪感なんてないし、素直に、単純に、さびしかった。
それでも、私は、女子高生だった
なんて、母のあれこれ、父のあれこれを書いていると、さびしいさびしいさびしい主張の連続になってしまうのだけれど、それでも、私は、当時女子高生で、楽しんではいたんです、あれこれ。
友達もいたし、ずっと憧れていた恋というやつをしたりして、もちろん一人暮らしだから自由で、遊びの範囲は広いし。
路上ミュージシャンと付き合ったり、10歳年上の彼ができたり、同級生と付き合ったりと、青くさく、不器用すぎて笑うしかないような恋をしていたなぁ。
自己承認欲求を恋で埋める経験
多分、私は、その頃、恋に味をしめます。
恋愛というものが、当時の私が求めていたものに、ぴったりと合っていたのです。
それは、
深く求め合い
承認しあい
愛することに理由がいらない
という点で、私にとって失った母の存在感に似ていました。
加えて、恋愛でありがたかったことは
「替えが見つかりやすいこと」。
終わっても、終わっても。
また、はじめやすい(自分が、惚れっぽくさえあれば)。
というふうに、婚活コンサルタントらしくない、恋愛観の時代に突入していきます。
その後のことは、また次の話で。
こんな個人的なことを、どうして書くのか。私の個人的なことは、家族の個人的なことでもあるのに、どうして書くのか。と、自分自身でも思います。
でも、やっとこれが遠い日々になり、この仕事をする私自身の根幹にあるので、書いてみています。